LOGIN祭壇に落ちた枷は、まだ微かな熱を帯びていた。
ネフィリアの右手首には、黒紫色の痣が幾重にも巻きついている。長く鎖に締められていた皮膚は赤く裂け、自由になった指も思うようには動かない。それでも彼女は右手を胸元まで持ち上げ、開いては握ることを繰り返していた。
その背後では、残る六本の黒鎖が天井の闇へ伸びている。
首。腰。両足首。そして翼の付け根。
半透明の翼は力なく畳まれ、鎖が食い込むたび、薄い膜の内側を紫の光が走った。
「あと六本か」
リュゼルが呟くと、ネフィリアはすぐに首を横へ振った。
「触れてはなりません」
声音の硬さに、彼は黒鎖へ伸ばしかけた手を止めた。
「一本でも減らしたほうが、あんたは楽になるだろう」
「この封印は、その程度の親切で造られてはいないわ」
ネフィリアの視線が、灰となった墓守蜈蚣の跡へ向く。神殿の床には、魔物を縫い止めた柱の残骸と、幾筋もの深い爪痕が残っていた。
「鎖には、それぞれ守り手が結びつけられています。一本が砕ければ一体が目覚める。先ほどの魔物も、私の右手を封じる鎖が弱ったことで呼び寄せられたのでしょう」
「六本を一度に壊したら」
「六体すべてが目覚める」
ネフィリアは淡々と答えたが、自由になった右手がドレスの裾を強く掴んだ。
「今の私たちでは、一体でも確実に勝てるとは言えません。急げば、鎖ではなく命のほうが先に尽きます」
その命には、リュゼル自身のものも含まれている。
二人の胸を結ぶ紫黒色の線は、今は皮膚の下へ沈んで見えない。それでもネフィリアが息を吸うたび、冷たい鼓動がリュゼルの胸の奥へ微かに伝わった。
「分かった。今は壊さない」
「ずいぶん素直ね」
「無茶をしたら、あんたまで傷つくんだろう。俺一人の身体じゃなくなった」
ネフィリアの指が止まった。
何かを言いかけた唇は、結局、細く結ばれただけだった。
石の擦れる音が祭壇の下から聞こえた。
リュゼルが振り返ると、瓦礫の隙間から白い耳が一対、恐る恐る覗いている。次いでもう一対、その後ろから一回り小さな耳が現れた。
三匹の月角兎の幼体だった。
「無事だったか」
リュゼルが腰を落とすと、三匹は一斉に駆け寄ってきた。足元へ鼻先を押しつけ、母親の匂いを探すように外套の裾を嗅いでいる。一匹が前脚を彼の靴へかけ、細い声で鳴いた。
抱き上げようとした右手は、黒竜の力を使った熱が残っている。
リュゼルは左手で幼体の背を撫でた。
「それは何です」
ネフィリアが、見慣れないものを見る目で幼体たちを見下ろしていた。
「月角兎の子だ」
「種類を尋ねたのではありません。なぜ連れているの」
「母親が死んだ。最期に、この三匹のことを託された」
「また死者との約束?」
ネフィリアの声から温度が消える。
リュゼルが顔を上げると、紫紺の瞳は彼ではなく、右腕の墓碑紋へ注がれていた。
「死者との約束ばかり増やせば、生者として歩けなくなるわ」
静かな言葉だった。
だからこそ、冷たい石のように胸へ沈んだ。
「見捨てろって言うのか」
「そうは言っていません。ただ、死者はもう傷つかない。あなたがどれほど自分を削っても、責める声を上げない。だから約束は、際限なく重くなる」
ネフィリアは黒鎖へつながれたまま、顎を僅かに上げた。
「すべて背負えると思わないことね。あなたが潰れれば、その子たちは二度捨てられる」
リュゼルは返す言葉を失った。
一匹の幼体が、硬くなった指先を舐めている。
守ると決めたこと自体が間違いだとは思わない。だが、自分の命を数に入れないままでは、守ったことにならないのかもしれなかった。
「……覚えておく」
ようやくそう答えると、ネフィリアは目を伏せた。
「そうしなさい」
ひどく偉そうな口調だったが、そこには先ほどまでの棘がなかった。
リュゼルは幼体たちを祭壇脇の窪みへ戻し、周囲の探索を始めた。
神殿内には砕けた柱や古い祭具が散乱している。青白い苔の光を受け、床へ長い影が折り重なっていた。湿った石と、魔物が残した生臭い体液の匂いが鼻を刺す。
荷物のほとんどを失った今、使えないものと決めつける余裕はない。
墓守蜈蚣の灰の中には、光へ変わらなかった外殻の破片が残っていた。指ほどの長さしかないが、石へ打ちつけても欠けない。縁には薄い層が幾重にも重なり、刃のような鋭さがあった。
リュゼルは折れかけた解体用小刀の柄から刃を外した。
外殻を平たい石で削り、形を整える。力を入れるたび、裂けた掌へ痛みが走った。黒鎖の破片を細く割り、短い縄とともに柄へ巻きつける。
「人間の武器へ、深淵の呪物を巻くつもり?」
祭壇からネフィリアの呆れた声が届いた。
「ほかに丈夫な金属がない」
「触れただけで命を吸う鎖よ」
「契約してからは、さっきほど痛くない」
「安全になったとは言っていません」
「持つ時間を短くする」
「そういう問題ではないわ」
衣擦れの音が続いた。自由な右手を得た彼女が、額を押さえたらしい。
それでも止めろとは言わなかった。
リュゼルは外殻の根元へ黒鎖をきつく巻き、最後に縄を噛ませた。短剣と呼ぶには無骨で、刃渡りも小刀より僅かに長いだけだ。
試しに柱の破片へ突き立てる。
鈍い音とともに、刃先が石へ半ばまで食い込んだ。
柄は緩まず、外殻にも傷一つない。
「悪くない」
「武器に持ち主を殺されなければ、ね」
ネフィリアの返事を聞きながら、リュゼルは短剣を腰の縄へ差した。
その時だった。
月角兎たちが、一斉に耳を伏せた。
リュゼルの耳にも、神殿の外から低い息遣いが届く。
ひとつ。
四本の脚が、濡れた石を踏んでいる。
足音は不規則で、ほとんど聞こえない。獲物の死角を探り、慎重に近づいてくる歩き方だった。
やがて闇の中に、二つの赤い光が浮かんだ。
黒い狼が神殿へ足を踏み入れる。
牛ほどもある身体を覆う毛は、光を吸い込むように黒い。前脚の爪だけが異様に長く、石の床を撫でるたび、耳障りな音を立てた。
「闇爪狼」
ネフィリアの声音が鋭くなる。
「群れから逸れた個体です。飢えている」
狼の鼻先が動いた。
墓守蜈蚣の灰を嗅ぎ、続いて月角兎たちが隠れた窪みへ顔を向ける。
リュゼルはその間へ立った。
「私が倒します」
ネフィリアの右手に、紫黒の魔力が集まる。
だが、光は祭壇から三歩ほど進んだところで揺らぎ、霧のように消えた。
「鎖の範囲から外へ届かないのか」
「契約を通せばあなたの手元には流せます。けれど、今のあなたが受け止めれば、また身体を傷める」
「なら、俺がやる」
答えた声が、自分でも分かるほど乾いていた。
短剣を抜く。
黒鎖を巻いた柄が、掌へ冷たく吸いついた。
刃物で肉を断つ感触なら知っている。勇者一行では、倒した魔物の皮を剥ぎ、骨を外し、食べられる部位を切り分けてきた。
けれど、とどめを刺したことは一度もない。
危険な敵へ近づくことは許されなかった。
お前は荷物だけ守っていろ。
戦えもしないくせに、獲物へ触れるな。
戦いが終われば血に汚れた死骸だけを渡され、早く処理しろと命じられた。
命が死骸へ変わる瞬間を、リュゼルは知らない。
狼が牙を剥いた。
唾液の糸が口端から垂れ、腐った肉の臭気が押し寄せる。
これは死にかけた相手ではない。
痛みを和らげ、最期を見届けるのでもない。
自分が生きるために、自分の意志で殺す。
短剣を握る手が震えた。
「迷うなら下がりなさい」
背後からネフィリアが言う。
「契約を通して魔力を渡せば、私が焼けます」
「あんたまで弱らせる」
「躊躇して喉を裂かれれば、同じことよ」
狼の後脚が沈んだ。
爪が床を掻く微かな音を、《微音察知》が拾う。
来る。
リュゼルは《瞬脚》を発動した。
右へ踏み出した直後、黒い巨体が先ほどまで彼のいた場所を通り抜ける。爪が外套の裾を裂き、冷たい風が脇腹を掠めた。
着地した脚へ、筋が千切れるような痛みが走る。
闇爪狼は壁を蹴り、空中で身体を反転させた。
二度目は、より速い。
足音だけでは間に合わない。
毛が空気を擦る音、息を吸う喉の震え、爪先が石を離れる瞬間。そのすべてを重ね、リュゼルは攻撃の軌道を読む。
身を伏せた頭上を爪が薙いだ。
だが、避けきれない。
一本が左肩へ食い込み、肉を裂いた。
熱い血が腕を伝う。
同時に、祭壇でネフィリアが息を詰めた。
彼女の左肩にも、見えない刃でなぞられたような赤い傷が浮かび上がる。
「リュゼル……!」
契約が痛みを渡した。
自分が傷つけば彼女も傷つく。その事実が、恐怖より強く足を床へ踏みとどまらせた。
「次は、受ける」
リュゼルは左肩へ意識を集中した。
新たな墓碑紋が熱を持つ。
皮膚の下で硬いものが重なり、黒灰色の《墓殻》が肩から上腕を覆った。
闇爪狼が三度目の突進に入る。
「左から来ます!」
ネフィリアの声が鋭く響いた。
リュゼルは逃げなかった。
半歩だけ身体をずらし、喉を狙う爪の前へ左肩を差し出す。
凄まじい衝撃が骨を揺らした。
墓殻の表面で爪が滑り、火花が散る。左腕の感覚が消え、膝が石床へ沈んだ。
それでも、殻は砕けない。
闇爪狼の胸元が目の前に開いた。
短剣を握った右手を上げる。
刃先が黒い喉へ触れた。
狼の赤い瞳に、自分の顔が映っている。
恐怖に強張り、息を乱した、情けない人間の顔。
ほんの一瞬、手が止まった。
狼の大顎が開く。
「生きなさい!」
ネフィリアの声が背を打った。
リュゼルは短剣を突き上げた。
硬い毛皮を破り、その奥の柔らかな肉へ刃が沈む。
狼の身体が大きく痙攣した。
牙が彼の耳元で噛み合い、熱い血が右手へ溢れる。短剣を押し込むほど、喉の奥から湿った音が漏れた。
やがて巨体から力が抜けた。
リュゼルは押し潰されるように床へ倒れた。
狼の重みと体温が、胸へ覆いかぶさっている。
荒い自分の呼吸だけが神殿に響いた。
短剣の柄から手を離せない。
指が強張り、掌へ食い込んでいた。
闇爪狼の赤い瞳から光が消えていく。
だが、その身体は光へ変わらなかった。
黒銀の流れも、最期の記憶も来ない。
右腕の墓碑紋は、沈黙したままだった。
「《葬送継承》が……発動しない」
「当然です」
ネフィリアの声は近くない。それでも契約を通して、彼女の乱れた鼓動が胸へ伝わってきた。
「あなたを敵と定め、殺そうとしたまま死んだ。最期にあなたを受け入れてはいません」
力を得られなかったことが惜しいのではない。
自分の手で命を断ったという事実だけが、何にも変わらず残った。
リュゼルは狼の下から身体を抜き、膝をついた。
震える手で短剣を引き抜く。
血の匂いが濃くなる。
刃先から落ちた赤い雫が、石床で小さく弾けた。
「殺したことを喜べない者は、王には向かない」
ネフィリアが言った。
リュゼルは血に濡れた手を見下ろした。
「俺は王になるつもりなんてない」
「ならないことと、なれないことは違うわ」
顔を上げると、ネフィリアは真っ直ぐ彼を見ていた。
嘲りはなかった。
ただ、その言葉の意味を今すぐ教える気もないらしい。彼女は残る鎖へ身を預け、静かに目を伏せた。
リュゼルは闇爪狼の前へ座り直した。
奪った命を元へ戻すことはできない。
ならば、せめて無駄にはしない。
短剣で腹を開き、食べられる肉を切り分ける。皮は剥いで水筒の代わりになる袋へ、腱は乾かして縄へ、長い爪は道具へ使えるよう残した。
手順は身体が覚えていた。
それでも、刃を入れるたびに先ほどの赤い瞳が脳裏へ浮かんだ。
作業を終えた頃には、神殿の闇がさらに深くなっていた。
時間の分からない場所でも、疲労と空腹は夜の訪れを告げる。
リュゼルは柱の破片を組み、乾いた苔へ《残火》の小さな火種を落とした。橙色の炎が立ち上がる。
祭壇の縁ぎりぎりに火を置き、ネフィリアからも手が届く距離へ座った。
同じ火の明かりが、二人の顔を照らしている。
月角兎の幼体たちはリュゼルの外套へ潜り込み、三つの白い背を寄せ合って眠っていた。
狼の肉を薄く切り、黒鎖の破片へ刺して炙る。
脂が火へ落ちるたび、香ばしい煙が立った。
「食べるか?」
差し出した肉を、ネフィリアは警戒に満ちた目で見た。
「人間が調理したものを、私に?」
「毒はない。俺も同じものを食べる」
リュゼルは先に一切れ口へ運んだ。少し硬く、血抜きも十分ではない。それでも何も食べていない身体には、脂の甘みが染みた。
ネフィリアは肉とリュゼルの顔を何度も見比べた。
やがて腹の奥から、ごく小さな音がした。
彼女の背筋が固まる。
リュゼルは聞こえなかったふりをして、火へ視線を戻した。
「冷めるぞ」
「……一口だけです」
自由になった右手が、肉を受け取る。
指先が僅かに触れた。
ネフィリアは慎重に匂いを確かめ、ほんの端だけを噛んだ。
ゆっくり咀嚼する。
火の粉が一つ、二人の間を昇っていった。
「……まずくはないわ」
「それ、うまいって意味でいいのか?」
ネフィリアは答えなかった。
ただ空になった右手を差し出し、今度は先ほどより少し大きな肉を指した。
「もう一切れ」
六本の鎖が沈黙する祭壇で、二人は初めて同じ火の温度を分け合った。
水音がするだけで、かつての地下神殿とは別の場所に思えた。《王域形成》が発動する以前、祭室の奥にあった水場は、岩の裂け目から濁った雫が落ちるだけの頼りないものだった。革袋を満たすにも長い時間がかかり、底には細かな砂が沈んだ。今では白灰色の石壁に沿って細い水路が走り、透き通った水が絶えず流れている。指を浸せば冷たく、鼻を近づけても腐臭も鉱物臭もない。崩れかけていた天井は継ぎ目のない黒銀の梁に支えられ、亀裂の奥から魔物が這い込んでくる気配も消えていた。城、とネフィリアは呼んだ。リュゼルには、まだその言葉が自分たちの居場所を指しているという実感がない。王座を思わせる高台があり、広間があり、寝室として使える小部屋がいくつも生まれた。外周には淡い紫色の膜のような結界が張られ、夜ごと聞こえていた獣の唸り声も遠ざかった。石床には冷気を和らげる熱が通り、裸足で歩いても以前ほど足裏が冷えない。それでも、目の前の木皿に載っている肉は増えなかった。リュゼルは切り分けた岩鎧猪の燻製肉を見つめながら、残量を頭の中でもう一度数えた。闇爪狼の干し肉が二袋半。岩鎧猪が一頭分には少し足りない程度。地下茸は食用確認済みのものが十数本。灰牙傭兵団が残した硬い乾燥パンは、子どもたちが無理なく食べられるよう水で戻せば三日分ほどになる。月角兎のために集めた青苔と柔らかな根草も、この周辺では十分な量が採れない。人が七人。月角兎が三匹。満腹を求めなければ、五日。さらに切り詰めれば七日。しかし、切り詰めた先に何があるのか。リュゼルはそこで計算を止めた。「リュゼル」呼ばれて顔を上げる。広間の反対側に座っていたネフィリアが、紫紺の瞳で彼の手元を見ていた。知らないうちに、肉を自分の皿から除けていた。一切れ。二切れ。脇へ寄せてある。「食べて」「あとで食う」「その言い方をする時は、食べないつもりでしょう」「食料の残りを見てただけだ」「それと、あなたの食事を減らすことに何の関係があるのかしら」言葉に詰まった。その間に、向かい側で衣擦れの小さな音がした。一番幼い少女が、自分の皿から肉をつまんでいる。五つか六つほどの年齢にしか見えない小さな手で、燻製肉を半分に裂こうとしていた。固い肉は簡単には千切れず、細い指先が赤くなる。隣に座るシュカの皿へ移そうとしているのだと気づき、リ
天井が落ちた。巨大な石塊が黒紫色の魔力に触れた途端、粉々に砕ける。砂塵が一気に舞い上がり、視界が灰色へ染まった。折れた柱が回廊を塞ぎ、床から噴き出した魔力が黒い雷のように壁を走る。「ネフィリア!」リュゼルは叫びながら腕で顔を庇った。返事はない。中心にいるネフィリアは、両足を床へつけてすらいなかった。銀白の髪を逆巻かせ、ほんの少し宙へ浮かんでいる。背中から広がった巨大な黒紫色の翼が、彼女の細い身体に到底収まるとは思えないほどの魔力を放ち続けていた。完全に解放された力。数百年分。本来なら長い時間をかけて身体へ馴染むはずだったものが、一度に戻っている。「シュカ!」奥の部屋へ向かって叫ぶ。「みんな連れて奥へ!」返事。聞き取れない。だが子どもたちの足音が遠ざかっていく。逃げるなら今だった。神殿そのものが崩れている。出口まで走れば、間に合うかもしれない。ネフィリアを置いて。その考えが頭を掠めた瞬間。リュゼルは自分でそれを切り捨てた。できるはずがない。自分が手を伸ばすと決めた。掴むかどうかは彼女に任せる。だが、彼女が掴んだ後でこちらから手を離すつもりはなかった。「ネフィリア!」魔力の奔流へ飛び込む。肌が裂ける。見えない刃で切り刻まれるような痛み。外套が破れる。それでも進む。一歩。二歩。ネフィリアまであと少し。翼が動いた。吹き飛ばされる。背中から床へ叩きつけられた。肺から空気が抜ける。「っ……」起き上がる。右腕の墓碑紋が熱い。完全契約はまだ切れていない。なら。つながっている。彼女がどれほど深い場所に沈んでいても。「もう一回だ」自分へ言い聞かせる。走る。今度は翼が振られる前に飛び込んだ。ネフィリアの身体を抱く。冷たいと思っていた肌が、今は焼けるほど熱かった。「離れ……」声。聞こえた。「ネフィリア?」「離れて……」本人の声。だが苦しげだ。「殺す……」「誰を」「全部……」抱いた身体が震える。黒竜の記憶へ呑まれた自分と似ている。しかしネフィリアの中にあるのは、一人分の記憶ではない。深淵王家。滅びた一族。その血に刻まれた魔力。何百年もの封印。怒り。恐怖。孤独。全部。「渡せ」リュゼルは彼女の背へ手を回す。「魔力を俺へ流せ」契約へ意識を向ける。
ネフィリアが「自由になりたい」と口にした瞬間、地下神殿は、長い眠りから目覚める獣のように身震いした。床に刻まれていた古代文字が一斉に黒紫色の光を帯び、何百年もの間、埃と血に埋もれていた溝を光が走っていく。柱から柱へ、壁から天井へ。振動は次第に大きくなり、継ぎ目から細かな砂が降り注いだ。奥の部屋で休んでいた子どもたちが不安そうな声を上げ、三匹の月角兎が物陰へ駆け込む足音が聞こえる。「ネフィリア、下がれ」リュゼルは反射的に彼女の前へ出た。だが、下がれる場所などない。ネフィリアの首と腰、両足から伸びる六本の黒鎖が、何者かの手に引かれたように空中へ持ち上がっていた。金属でできているはずなのに、鎖の表面が濡れた生き物の皮膚のように脈打つ。黒い魔力が一節ずつ膨れ、それぞれの先端から床へ滴り落ちた。一滴。二滴。黒い雫が石床へ触れるたび、人の形へ盛り上がる。鎧。兜。長剣。最初の一体が姿を現した時、リュゼルの右腕に刻まれた墓碑紋が激しく焼けた。「……こいつら」ネフィリアの声が低くなる。六本の鎖から、一体ずつ。計六体。全身を黒銀色の重鎧で包んだ騎士が、半円を描くように二人を囲んでいく。顔は兜の奥に隠されている。目に当たる隙間には赤紫の光だけが灯り、そのどれからも生者の呼吸は聞こえなかった。生きていない。だが、ただの人形でもない。「《刑罰騎士》……」ネフィリアの唇から、絞り出すように名が落ちた。「知ってるのか」「深淵王家の処刑に使われた魔法人形よ。正確には、処刑者たちの戦闘記録と意思を写したもの」彼女の頬から血の気が引いている。「王家に背くことを許さないための兵器だった。それが最後には、王家を殺すために使われた」六体の騎士が、同時に剣を抜いた。重い金属音が重なる。音だけで胸が圧迫される。「どうすれば鎖が外れる」リュゼルが問う。「おそらく」ネフィリアの視線が六本の鎖を辿る。「一体につき一本。あれを倒せば、対応する封印が砕ける」「全部で六」「ええ」「分かりやすいな」「笑っている場合?」「笑ってない」最前列の刑罰騎士が踏み込んだ。速い。重鎧の重量を感じさせない。リュゼルはネフィリアを抱くようにして横へ転がった。直後、剣が二人のいた床へ叩きつけられ、石が砕け散る。破片が頬を掠め、熱い筋が一本走った。立ち上がる
ネフィリアは、その夜ほとんど口を開かなかった。神殿に残された古い寝台へ腰掛け、両手を膝の上で重ねたまま、どこでもない場所を見ている。青白い鉱石灯が銀髪の輪郭だけを浮かび上がらせ、紫紺の瞳の奥までは照らさない。六本の鎖は、いつもと変わらず彼女の身体から伸びていた。首。腰。両足。そして背後の封印柱。何年、何十年、あるいはそれ以上。彼女はそれを当然のものとして身につけてきた。リュゼルは少し離れた場所で、肩の包帯を巻き直していた。片手ではうまく締められない。何度目かで布が緩み、舌打ちしそうになる。「貸して」ネフィリアが言った。顔はまだこちらを向いていない。「いい」「あなたは片手で巻くのが下手」「慣れてないだけだ」「慣れないで」短い言葉。リュゼルは手を止めた。ネフィリアが立つ。鎖を引きずりながら近づき、彼の横へ座る。包帯を受け取る。冷たい指先が肩へ触れた。布を解く。傷口を見た瞬間、眉間へ小さな皺が寄った。「深い」「動くから余計に開いた」「自覚があるなら動かないで」「ザハルに言ってくれ」「死んだ者へ説教する趣味はないわ」包帯を巻く手つきは意外なほど丁寧だった。少し強く締められる。「痛い」「罰よ」「何の」「私に同じ傷をつけた罰」「契約したのはそっちだろ」「だから腹が立つの」理屈が通っているようで通っていない。けれど、そのやり取りが終わると、再び沈黙が降りた。古地図は二人の前に広げてある。裏面の文字。《王女を解き放つな。彼女が望むまでは》リュゼルはその一文を何度も見た。ヴァルディオス。最初に看取った古代魔獣。彼の中にはその記憶の断片が眠っている。もっと深く潜れば、この言葉を書いた理由が分かるかもしれない。「調べる」リュゼルが言う。ネフィリアの手が止まった。「何を」「ヴァルディオスの記憶」「駄目」即答。「理由は」「分かっているでしょう」「でも」「駄目よ」声が強くなる。リュゼルは黙った。《葬送継承》で受け取った記憶は、ただの知識ではない。死者の感情。痛み。恐怖。願い。深く触れれば触れるほど、それらと自分の境界が曖昧になる。一度、ヴァルディオスの怒りに呑まれかけた。あの時はネフィリアの声で戻った。次も戻れる保証はない。「私のことで、あなたが自分
城の北側へ伸ばしていた影鳥が一羽、翼を半ば失った状態で戻ってきた。黒い羽根を散らしながら城門を越え、石床へ落ちる。ネフィリアがすぐに片膝をつき、掌へ乗せると、魔力で作られた小鳥の輪郭が数度揺らいだ。外敵に攻撃されたのだと理解した瞬間、近くで荷の整理をしていたイセラの黒豹の耳が立った。「人?」「ええ。それもかなり多いわ」ネフィリアは目を閉じ、壊れかけた影鳥が最後に見た光景を読み取った。紫紺の瞳を開いた時、その表情からわずかな緩みも消えている。「三十七。全員人間。統一された甲冑を着ているから、傭兵ではないでしょうね」「紋章は?」ヴァレクの声が背後から飛んだ。いつもより低かった。彼は冥甲熊との一件以来、城の武器庫を整理する仕事を勝手に引き受けていた。傷はほぼ塞がっており、黒鉄の鎧もフィオルが修理できる範囲だけ手を入れている。胸元に残された古い紋章の削り跡だけは、本人が触らせなかった。ネフィリアは影鳥から読み取った形を説明する。「白地に、剣を抱く双頭の鷲」ヴァレクの右目が細くなった。「フェルザだ」短い言葉だったが、イセラがすぐに腰の湾曲刀へ手を掛けた。「お前の国か」「元、だ」ヴァレクは訂正すると、城門へ向かって歩き始めた。リュゼルがその前へ回り込む。「どこへ行く」「俺を探している」「まだそう決まってない」「フェルザ王国の正規騎士が、観光のために奈落へ三十七人も降りてくると思うか」返す言葉がなかった。ヴァレクはそのまま進もうとする。リュゼルは退かなかった。「まず話を聞く」「俺が出れば済む」「済むかどうかを決めるのは、話を聞いてからだ」ヴァレクの眉間へ皺が寄る。しかし口論を続ける前に、外から角笛が響いた。三度。短く。軍隊が交渉を求める時の合図だとヴァレクが告げる。「向こうもすぐ攻める気ではないらしい」リュゼルは黒鎖短剣を腰へ差した。「なら交渉する」ネフィリアが隣へ立つ。「私は姿を隠したほうがいい?」「いや」リュゼルは首を振った。「ここにネフィリアがいることを隠して話しても意味がない」「相手が人間なら、私を見た瞬間に交渉が終わる可能性もあるわよ」「それでもだ」イセラが鼻を鳴らす。「相変わらず面倒な正直者だな」「嘘が下手なんだよ」「それは知ってる」城の中では、シュカたちがすでに年少者を奥
灰牙が残した荷物には、子ども用の鉄枷が三十七個入っていた。数え終えた時、リュゼルはしばらく指を動かせなかった。革袋から取り出して石床へ並べた枷は、どれも小さい。成人の手首には合わない。中には幼い子どもでも余るほど細いものまであり、内側には逃亡を防ぐための返しがつけられていた。「壊していい?」フィオルより幼く見える獣人の少年が訊いた。「いいよ」リュゼルが答えると、少年は両手で一つを持ち上げ、石へ叩きつけた。一度では壊れない。二度。三度。他の子どもも近づいてくる。誰も声を上げなかった。ただ順番に枷を受け取り、石床へ打ちつける。乾いた金属音が神殿に何度も響いた。リュゼルは止めなかった。最後の一つが歪み、使い物にならなくなってから、灰牙の荷物を改める。保存食。油。縄。解毒薬。金貨。捕獲用の眠り粉。それから、ザハルが身につけていた革袋。血と灰が付着している。ネフィリアは少し離れた柱へ背を預けていた。肩の傷は布で巻いてある。リュゼルと同じ場所。本人は痛みなど存在しないような顔をしているが、ときおり右手で左肩を押さえる。「休んでいていい」「あなたも負傷者よ」「俺は荷物を見るだけだ」「私は立って見ているだけ」「なら同じか」「そうね」短いやり取り。以前なら、それで会話は切れていた。今は不思議と沈黙が重くない。リュゼルは革袋の口紐を解いた。最初に出てきたのは、数枚の依頼書。文字は魔族領で使われる公用文字らしい。リュゼルには読めない。ネフィリアへ渡す。「何て書いてある?」彼女は目を走らせた。「回収対象。十五歳以下を優先。魔力保持者、混血、希少種は損傷を避けること」声が僅かに低くなる。「搬送先は?」「書いてない。符号だけ」「黒冠研究棟と同じか」「おそらく」紙の端には、現魔王家の紋章とは別に、小さな白い円が押されていた。それを見たネフィリアの指が止まる。「それは?」「知らない」即答だった。しかし紙を戻す動きがほんの僅かに遅れた。リュゼルは追及しなかった。次に出てきたのは硬貨。続いて黒い鍵。そして最後に、何度も折り畳まれた厚い皮紙。開いた瞬間、埃と古い油の匂いが立った。「地図か」祭室の床へ広げる。大きい。現在彼らが把握している神殿周辺だけではない。奈落の深層が、複雑な樹木