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第8話 初めて倒した魔物

Author: なつめ
last update publish date: 2026-07-27 08:55:40

 祭壇に落ちた枷は、まだ微かな熱を帯びていた。

 ネフィリアの右手首には、黒紫色の痣が幾重にも巻きついている。長く鎖に締められていた皮膚は赤く裂け、自由になった指も思うようには動かない。それでも彼女は右手を胸元まで持ち上げ、開いては握ることを繰り返していた。

 その背後では、残る六本の黒鎖が天井の闇へ伸びている。

 首。腰。両足首。そして翼の付け根。

 半透明の翼は力なく畳まれ、鎖が食い込むたび、薄い膜の内側を紫の光が走った。

「あと六本か」

 リュゼルが呟くと、ネフィリアはすぐに首を横へ振った。

「触れてはなりません」

 声音の硬さに、彼は黒鎖へ伸ばしかけた手を止めた。

「一本でも減らしたほうが、あんたは楽になるだろう」

「この封印は、その程度の親切で造られてはいないわ」

 ネフィリアの視線が、灰となった墓守蜈蚣の跡へ向く。神殿の床には、魔物を縫い止めた柱の残骸と、幾筋もの深い爪痕が残っていた。

「鎖には、それぞれ守り手が結びつけられています。一本が砕ければ一体が目覚める。先ほどの魔物も、私の右手を封じる鎖が弱ったことで呼び寄せられたのでしょう」

「六本を一度に壊したら」

「六体すべてが目覚める」

 ネフィリアは淡々と答えたが、自由になった右手がドレスの裾を強く掴んだ。

「今の私たちでは、一体でも確実に勝てるとは言えません。急げば、鎖ではなく命のほうが先に尽きます」

 その命には、リュゼル自身のものも含まれている。

 二人の胸を結ぶ紫黒色の線は、今は皮膚の下へ沈んで見えない。それでもネフィリアが息を吸うたび、冷たい鼓動がリュゼルの胸の奥へ微かに伝わった。

「分かった。今は壊さない」

「ずいぶん素直ね」

「無茶をしたら、あんたまで傷つくんだろう。俺一人の身体じゃなくなった」

 ネフィリアの指が止まった。

 何かを言いかけた唇は、結局、細く結ばれただけだった。

 石の擦れる音が祭壇の下から聞こえた。

 リュゼルが振り返ると、瓦礫の隙間から白い耳が一対、恐る恐る覗いている。次いでもう一対、その後ろから一回り小さな耳が現れた。

 三匹の月角兎の幼体だった。

「無事だったか」

 リュゼルが腰を落とすと、三匹は一斉に駆け寄ってきた。足元へ鼻先を押しつけ、母親の匂いを探すように外套の裾を嗅いでいる。一匹が前脚を彼の靴へかけ、細い声で鳴いた。

 抱き上げようとした右手は、黒竜の力を使った熱が残っている。

 リュゼルは左手で幼体の背を撫でた。

「それは何です」

 ネフィリアが、見慣れないものを見る目で幼体たちを見下ろしていた。

「月角兎の子だ」

「種類を尋ねたのではありません。なぜ連れているの」

「母親が死んだ。最期に、この三匹のことを託された」

「また死者との約束?」

 ネフィリアの声から温度が消える。

 リュゼルが顔を上げると、紫紺の瞳は彼ではなく、右腕の墓碑紋へ注がれていた。

「死者との約束ばかり増やせば、生者として歩けなくなるわ」

 静かな言葉だった。

 だからこそ、冷たい石のように胸へ沈んだ。

「見捨てろって言うのか」

「そうは言っていません。ただ、死者はもう傷つかない。あなたがどれほど自分を削っても、責める声を上げない。だから約束は、際限なく重くなる」

 ネフィリアは黒鎖へつながれたまま、顎を僅かに上げた。

「すべて背負えると思わないことね。あなたが潰れれば、その子たちは二度捨てられる」

 リュゼルは返す言葉を失った。

 一匹の幼体が、硬くなった指先を舐めている。

 守ると決めたこと自体が間違いだとは思わない。だが、自分の命を数に入れないままでは、守ったことにならないのかもしれなかった。

「……覚えておく」

 ようやくそう答えると、ネフィリアは目を伏せた。

「そうしなさい」

 ひどく偉そうな口調だったが、そこには先ほどまでの棘がなかった。

 リュゼルは幼体たちを祭壇脇の窪みへ戻し、周囲の探索を始めた。

 神殿内には砕けた柱や古い祭具が散乱している。青白い苔の光を受け、床へ長い影が折り重なっていた。湿った石と、魔物が残した生臭い体液の匂いが鼻を刺す。

 荷物のほとんどを失った今、使えないものと決めつける余裕はない。

 墓守蜈蚣の灰の中には、光へ変わらなかった外殻の破片が残っていた。指ほどの長さしかないが、石へ打ちつけても欠けない。縁には薄い層が幾重にも重なり、刃のような鋭さがあった。

 リュゼルは折れかけた解体用小刀の柄から刃を外した。

 外殻を平たい石で削り、形を整える。力を入れるたび、裂けた掌へ痛みが走った。黒鎖の破片を細く割り、短い縄とともに柄へ巻きつける。

「人間の武器へ、深淵の呪物を巻くつもり?」

 祭壇からネフィリアの呆れた声が届いた。

「ほかに丈夫な金属がない」

「触れただけで命を吸う鎖よ」

「契約してからは、さっきほど痛くない」

「安全になったとは言っていません」

「持つ時間を短くする」

「そういう問題ではないわ」

 衣擦れの音が続いた。自由な右手を得た彼女が、額を押さえたらしい。

 それでも止めろとは言わなかった。

 リュゼルは外殻の根元へ黒鎖をきつく巻き、最後に縄を噛ませた。短剣と呼ぶには無骨で、刃渡りも小刀より僅かに長いだけだ。

 試しに柱の破片へ突き立てる。

 鈍い音とともに、刃先が石へ半ばまで食い込んだ。

 柄は緩まず、外殻にも傷一つない。

「悪くない」

「武器に持ち主を殺されなければ、ね」

 ネフィリアの返事を聞きながら、リュゼルは短剣を腰の縄へ差した。

 その時だった。

 月角兎たちが、一斉に耳を伏せた。

 リュゼルの耳にも、神殿の外から低い息遣いが届く。

 ひとつ。

 四本の脚が、濡れた石を踏んでいる。

 足音は不規則で、ほとんど聞こえない。獲物の死角を探り、慎重に近づいてくる歩き方だった。

 やがて闇の中に、二つの赤い光が浮かんだ。

 黒い狼が神殿へ足を踏み入れる。

 牛ほどもある身体を覆う毛は、光を吸い込むように黒い。前脚の爪だけが異様に長く、石の床を撫でるたび、耳障りな音を立てた。

「闇爪狼」

 ネフィリアの声音が鋭くなる。

「群れから逸れた個体です。飢えている」

 狼の鼻先が動いた。

 墓守蜈蚣の灰を嗅ぎ、続いて月角兎たちが隠れた窪みへ顔を向ける。

 リュゼルはその間へ立った。

「私が倒します」

 ネフィリアの右手に、紫黒の魔力が集まる。

 だが、光は祭壇から三歩ほど進んだところで揺らぎ、霧のように消えた。

「鎖の範囲から外へ届かないのか」

「契約を通せばあなたの手元には流せます。けれど、今のあなたが受け止めれば、また身体を傷める」

「なら、俺がやる」

 答えた声が、自分でも分かるほど乾いていた。

 短剣を抜く。

 黒鎖を巻いた柄が、掌へ冷たく吸いついた。

 刃物で肉を断つ感触なら知っている。勇者一行では、倒した魔物の皮を剥ぎ、骨を外し、食べられる部位を切り分けてきた。

 けれど、とどめを刺したことは一度もない。

 危険な敵へ近づくことは許されなかった。

 お前は荷物だけ守っていろ。

 戦えもしないくせに、獲物へ触れるな。

 戦いが終われば血に汚れた死骸だけを渡され、早く処理しろと命じられた。

 命が死骸へ変わる瞬間を、リュゼルは知らない。

 狼が牙を剥いた。

 唾液の糸が口端から垂れ、腐った肉の臭気が押し寄せる。

 これは死にかけた相手ではない。

 痛みを和らげ、最期を見届けるのでもない。

 自分が生きるために、自分の意志で殺す。

 短剣を握る手が震えた。

「迷うなら下がりなさい」

 背後からネフィリアが言う。

「契約を通して魔力を渡せば、私が焼けます」

「あんたまで弱らせる」

「躊躇して喉を裂かれれば、同じことよ」

 狼の後脚が沈んだ。

 爪が床を掻く微かな音を、《微音察知》が拾う。

 来る。

 リュゼルは《瞬脚》を発動した。

 右へ踏み出した直後、黒い巨体が先ほどまで彼のいた場所を通り抜ける。爪が外套の裾を裂き、冷たい風が脇腹を掠めた。

 着地した脚へ、筋が千切れるような痛みが走る。

 闇爪狼は壁を蹴り、空中で身体を反転させた。

 二度目は、より速い。

 足音だけでは間に合わない。

 毛が空気を擦る音、息を吸う喉の震え、爪先が石を離れる瞬間。そのすべてを重ね、リュゼルは攻撃の軌道を読む。

 身を伏せた頭上を爪が薙いだ。

 だが、避けきれない。

 一本が左肩へ食い込み、肉を裂いた。

 熱い血が腕を伝う。

 同時に、祭壇でネフィリアが息を詰めた。

 彼女の左肩にも、見えない刃でなぞられたような赤い傷が浮かび上がる。

「リュゼル……!」

 契約が痛みを渡した。

 自分が傷つけば彼女も傷つく。その事実が、恐怖より強く足を床へ踏みとどまらせた。

「次は、受ける」

 リュゼルは左肩へ意識を集中した。

 新たな墓碑紋が熱を持つ。

 皮膚の下で硬いものが重なり、黒灰色の《墓殻》が肩から上腕を覆った。

 闇爪狼が三度目の突進に入る。

「左から来ます!」

 ネフィリアの声が鋭く響いた。

 リュゼルは逃げなかった。

 半歩だけ身体をずらし、喉を狙う爪の前へ左肩を差し出す。

 凄まじい衝撃が骨を揺らした。

 墓殻の表面で爪が滑り、火花が散る。左腕の感覚が消え、膝が石床へ沈んだ。

 それでも、殻は砕けない。

 闇爪狼の胸元が目の前に開いた。

 短剣を握った右手を上げる。

 刃先が黒い喉へ触れた。

 狼の赤い瞳に、自分の顔が映っている。

 恐怖に強張り、息を乱した、情けない人間の顔。

 ほんの一瞬、手が止まった。

 狼の大顎が開く。

「生きなさい!」

 ネフィリアの声が背を打った。

 リュゼルは短剣を突き上げた。

 硬い毛皮を破り、その奥の柔らかな肉へ刃が沈む。

 狼の身体が大きく痙攣した。

 牙が彼の耳元で噛み合い、熱い血が右手へ溢れる。短剣を押し込むほど、喉の奥から湿った音が漏れた。

 やがて巨体から力が抜けた。

 リュゼルは押し潰されるように床へ倒れた。

 狼の重みと体温が、胸へ覆いかぶさっている。

 荒い自分の呼吸だけが神殿に響いた。

 短剣の柄から手を離せない。

 指が強張り、掌へ食い込んでいた。

 闇爪狼の赤い瞳から光が消えていく。

 だが、その身体は光へ変わらなかった。

 黒銀の流れも、最期の記憶も来ない。

 右腕の墓碑紋は、沈黙したままだった。

「《葬送継承》が……発動しない」

「当然です」

 ネフィリアの声は近くない。それでも契約を通して、彼女の乱れた鼓動が胸へ伝わってきた。

「あなたを敵と定め、殺そうとしたまま死んだ。最期にあなたを受け入れてはいません」

 力を得られなかったことが惜しいのではない。

 自分の手で命を断ったという事実だけが、何にも変わらず残った。

 リュゼルは狼の下から身体を抜き、膝をついた。

 震える手で短剣を引き抜く。

 血の匂いが濃くなる。

 刃先から落ちた赤い雫が、石床で小さく弾けた。

「殺したことを喜べない者は、王には向かない」

 ネフィリアが言った。

 リュゼルは血に濡れた手を見下ろした。

「俺は王になるつもりなんてない」

「ならないことと、なれないことは違うわ」

 顔を上げると、ネフィリアは真っ直ぐ彼を見ていた。

 嘲りはなかった。

 ただ、その言葉の意味を今すぐ教える気もないらしい。彼女は残る鎖へ身を預け、静かに目を伏せた。

 リュゼルは闇爪狼の前へ座り直した。

 奪った命を元へ戻すことはできない。

 ならば、せめて無駄にはしない。

 短剣で腹を開き、食べられる肉を切り分ける。皮は剥いで水筒の代わりになる袋へ、腱は乾かして縄へ、長い爪は道具へ使えるよう残した。

 手順は身体が覚えていた。

 それでも、刃を入れるたびに先ほどの赤い瞳が脳裏へ浮かんだ。

 作業を終えた頃には、神殿の闇がさらに深くなっていた。

 時間の分からない場所でも、疲労と空腹は夜の訪れを告げる。

 リュゼルは柱の破片を組み、乾いた苔へ《残火》の小さな火種を落とした。橙色の炎が立ち上がる。

 祭壇の縁ぎりぎりに火を置き、ネフィリアからも手が届く距離へ座った。

 同じ火の明かりが、二人の顔を照らしている。

 月角兎の幼体たちはリュゼルの外套へ潜り込み、三つの白い背を寄せ合って眠っていた。

 狼の肉を薄く切り、黒鎖の破片へ刺して炙る。

 脂が火へ落ちるたび、香ばしい煙が立った。

「食べるか?」

 差し出した肉を、ネフィリアは警戒に満ちた目で見た。

「人間が調理したものを、私に?」

「毒はない。俺も同じものを食べる」

 リュゼルは先に一切れ口へ運んだ。少し硬く、血抜きも十分ではない。それでも何も食べていない身体には、脂の甘みが染みた。

 ネフィリアは肉とリュゼルの顔を何度も見比べた。

 やがて腹の奥から、ごく小さな音がした。

 彼女の背筋が固まる。

 リュゼルは聞こえなかったふりをして、火へ視線を戻した。

「冷めるぞ」

「……一口だけです」

 自由になった右手が、肉を受け取る。

 指先が僅かに触れた。

 ネフィリアは慎重に匂いを確かめ、ほんの端だけを噛んだ。

 ゆっくり咀嚼する。

 火の粉が一つ、二人の間を昇っていった。

「……まずくはないわ」

「それ、うまいって意味でいいのか?」

 ネフィリアは答えなかった。

 ただ空になった右手を差し出し、今度は先ほどより少し大きな肉を指した。

「もう一切れ」

 六本の鎖が沈黙する祭壇で、二人は初めて同じ火の温度を分け合った。

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